会社というものは、常に右肩上がりにならないとと思っています。
目標を20%アップに持ち、利益率も30%以上を目指しています。
将来的には、住宅件数も減っていくと思うため、多店舗展開や、異業種のM&Aも考えており、投資会社も興そうと考えております。
やはり細くとも末永い企業でありたいと思っており、幹部の育成や教育、研修等にも力をいれたいと思っております。
多店舗や会社が増え社長や店長として、誰でも幹部がつとまるようにしっかりマネジメント力や経営能力をつけてほしいと思っております。
今、私が65歳で後2年ほどで社長交代、72歳頃には引退と考えております。
現在会社が10社ほどあるため、その全体的な会社の将来を見て様々なアドバイスもできればいいのではないかと思っております。
やはり死ぬまで何らかの仕事に係りたいと思っております。
私が住宅会社の社長になろうと思ったのは、唐崎建築時代の下請業者の社長が私を夕食に
連れていったくださった際大盤振る舞いをされたのですが、翌日には又財布に100万円ほど入っており、
毎日のように数百万円と使ってもいつも財布の中が暖かいのでこれしかないと思った事でした。
そのためには現場監督の一級建築士と営業の為の宅建主任者の免許を取得しなければならないと強い決意の基、
営業をしながら勉強をがんばりました。
又、幼少の頃から貧乏だった為、いつかおなかいっぱいに肉やケーキなどを食べれるほどの
お金を稼ぎたいと強く思っていました。
どうすればお金持ちになれるのか銀行員の方に聞いたこともありました。
又、丸山住宅の営業の時は給与が15万円位で生活するのがままらない状態でお米やおかずを実家にもらいに行くこともありました。
営業時代もなかなか年収が上がらず、やる仕事が一緒ならばいっそのこと独立しようと思いが一気にこみあげてきて、独立しました。
私は4人兄弟の次男です。わりと自由に育てられ、中学時代は
バレーボール部のキャプテンとして田舎の学校で育ちました。
高校時代は空手部の副キャプテンとして、運動好きな少年時代でした。
勉強は、普通位でしたが小さい頃から何に関しても負けず嫌いで誰にでも
対抗心がありました。
家は兼業農家で私が欲しいものを買ってくれと両親に言いましたが
お金がないので買えないと、とても貧しかったことを覚えています。
それでもどうしても欲しいものがあるときは、自宅のにわとりの卵を売って
そのお金で欲しいものを買ったのを覚えています。弁当も昨夜のおかずの
余り物や梅干しや漬け物のようなものばかりで、友人と一緒に昼飯を隠して
食べていました。
兄弟の中でも一番欲が強かったイメージがあります。
中学校の進路指導の3者面談の時、父が勤めていた建設会社の
2代目社長になる事になり大学の建築家に入学しましたが1年留年した為、
辞めてしまいました。
初めて就職したのは、父の勤める建設会社です。
そこで土方からたたき上げられ2級建築士を取得し、現場監督になりました。
しかし、3年ほど勤めたところで会社が倒産してしまいました。
その後は、友人の誘いで木造の建築会社の現場監督になりました。
しかし、将来建築会社の社長になりたいという思いから住宅営業として
丸山住宅という住宅会社に入りました。そこで宅建の免許も取得して、
2年位でトップセールスマンとなり係長、次長と昇進一級建築士を取得して、
6年間勤めた丸山住宅を退社しました。
誰一人誘わず一人で、昭和63年1月に旗上げしました。
丸山住宅より、退職金と送別会までしていただき、大変うれしかったのを覚えています。
独立してから4ヶ月は無給でしたので丸山住宅にいただいた退職金がとても役に立ちました。
私は、一級建築士であり宅建主任者でもあるため、住宅のデザインや建築設備に力を入れるのではなく
住み心地やメンテナンスフリーやランニングコストがかからない住宅を目指しております。
高断熱や遮熱、自然素材(呼吸する材料)、針葉樹にこだわり、又、弊社の客層を20歳~30歳にしぼり
その人たちの年収200万円~300万円でも、無理せずに買える家づくりに(価格帯)気をつけております。
建材も高断熱使用の玄関ドア、アルミサッシではなく樹脂サッシのLow-Eペアガラス、新聞紙を主原料とした
断熱材セルロースファイバー、青森県のヒバを使い防腐性や防蟻性の高い材料を使い耐久性の高い住宅を目指しています。
又、一からの注文住宅ではなく素人でも売れるように企画住宅の販売というように考えております。
お客様にお家のランクを選んでもらい、短期間でプランや見積もりができるように考えております。